おゆみ野ほたる会

おゆみ野ほたる会は、千葉市緑区のおゆみ野で活動している自治会です。

おゆみ野の遺跡の解説


本解説は、[ 森本和男 千葉東南部地区の遺跡群 (財)千葉県文化財センター 研究連絡誌第58号 平成12年7月 ] をもとにして作成している。



はじめに

 昭和40年代後半から始まった、おゆみ野の宅地造成によって、多くの遺跡が発見され、調査されてきた。その調査面積は、おゆみ野の造成面積605haの10%を超える70haにも達した。元来、この地区は、台地に谷津が複雑に入り込んだ地形だったので、台地上の面積だけを考えると、遺跡の占めていた割合は更に高くなり、台地全体に多くの遺跡が存在していたと考えられている。保存された一部の遺跡を除いて、ほとんどの遺跡は調査終了後に破壊され、消滅してしまった。今までに発掘された遺跡の数は、40ヶ所以上にもなり、この調査により地域全体の考古学的な様相がはっきりしてきた。ここに示した

遺跡の一覧表は、長年の調査結果をまとめたものであり本地区の遺跡の全体像を示している。

 

 おゆみ野地区は、遺跡の宝庫ともいえるが、この地の住民は、遺跡の存在を知らずに他から移り住んだ人々が大多数で、またこの地で生まれ育った方にしても、遺跡について十分理解している方々は、少ないと思われる。調査研究報告も、多く発表されているが、一般の方々にとっては、目に触れる機会も殆どなく、また目にすることができても余りにも難解で、十分に内容を理解できないと思われる。そこでこのページでは、難しい調査研究報告を読むことなく、おゆみ野の遺跡の全体像を理解できるよう平易に、年代別に概略を紹介した。その為、学問的には、不適切な記述も多くあると思われるが、ご容赦をお願いしたい。本報告をご覧になって更に詳しい内容についてお知りになりたい方は、文頭に示す文献をご覧下さい。



旧石器時代の遺跡

 旧石器時代遺跡は、ほぼ全域から見つかった。一ヶ所の遺跡から多くの石器群が確認されている。



縄文時代の遺跡

 縄文時代の遺跡も地区全域で見つかった。早期の遺跡は、ほぼ全域に分布している。早期の炉穴が、ほとんどの遺跡から検出され、多数の炉穴からなる炉穴群もあった。

 

 前期の遺跡は少なく、遺構の数も少ない。住居跡が南二重堀遺跡、鎌取遺跡、有吉城跡第12地点、大膳野北遺跡で見つかった。有吉遺跡、有吉北貝塚、春日作遺跡、神明社裏遺跡(b)で少数の陥穴と土坑、土器埋設遺構、土器包含層が見つかった。有吉北貝塚、有吉南貝塚は縄文時代中期の大規模な貝塚であり、多数の住居跡と小竪穴を伴う大集落が形成されていた。大集落である有吉北貝塚と有吉南貝塚を中心にして、その北側周辺に高沢遺跡、南二重堀遺跡、鎌取場台遺跡、鎌取遺跡、有吉城跡第12地点の小集落が位置し、南側に、神明社裏遺跡(b)、小金沢貝塚、六通金山遺跡、御塚台遺跡(c)、ムコアラク遺跡(a)、大膳野北遺跡の小集落が点在していた。

 

 後期の貝塚遺跡として、上赤塚貝塚、木戸作貝塚、六通貝塚、大膳野南遺跡があげられるが、貝塚にともなう住居跡の数は少なく、中期の貝塚遺跡と同規模の大集落となっていない。また、これらの遺跡は集中することなく散在している。

 

 晩期の遺跡は少なく、遺構もほとんど検出されていない。小金沢古墳群(c)で後晩期の住居跡が見つかった他に、六通貝塚(c)、六通貝塚(e)、六通貝塚(f)、白鳥台遺跡で後晩期の土器包含層が調査されたほどである。



弥生時代の遺跡

 弥生時代の遺跡は、きわめて少ない。見つけられた遺構は住居跡で、有吉遺跡で中期の住居跡が1軒、バクチ穴遺跡で後期の住居跡が1軒、有吉遺跡(3次)で末期の住居跡が3軒のみである。



古墳時代の遺跡

 古墳時代の遺跡は、全域で多数分布している。前期については、複数の住居跡からなる集落が南二重堀遺跡、鎌取場台遺跡、馬ノ口遺跡、城ノ台遺跡(b)、城ノ台遺跡(c)、城ノ台遺跡(d)で確認され、椎名神社遺跡でも住居跡が1軒確認された。また、円墳1基が富岡古墳群で、方墳3基が馬ノ口遺跡で確認された。前期の集落と古墳の関係については、馬ノ口遺跡で共存していたことが確認できたが、他の遺跡では共存せず、集落から離れた地点に古墳が位置していた。

 

 中期の集落は南二重堀遺跡、鎌取場台遺跡、鎌取遺跡で確認され、有吉遺跡(1次)でも住居跡が1軒見つけられた。これらの集落遺跡はおゆみ野の北側に集中している。中期古墳は、おもに円墳が上赤塚貝塚・古墳群、上赤塚1号墳、狐塚、椎名崎古墳群C支群(b)で調査され、有吉城跡第26・28・30地点と有吉城跡第28地点でも古墳周溝跡2基と箱式石棺1基が確認された。これらの古墳は、中期集落のやや南側に位置していた。

 

 後期の遺跡は、前期や中期の遺跡と比較してかなり多く、集落は、ほぼ全域に分布していた。この時期には、対象地域内のほとんどの台地上で集落が形成されている。集落と古墳の関係については、集落に隣接せずに、単独に古墳だけで構成される遺跡もあったが、共存している例が多い。古墳の墳形は、前方後円墳、帆立貝式古墳、円墳、方墳とバラエティに富み、円墳が最も多く見られた。



歴史時代の集落

 奈良時代から平安時代までの歴史時代の集落も、古墳時代後期と同様に、地区内のほぼ全域の台地上で確認された。このことは、古墳時代後期から歴史時代にかけて、人々の生活に大きな変動がなく、居住地を変えることなく、数世代にわたって集落が存続したことを意味している。周溝状遺構が見られる遺跡は、さほど集中せずく散在していた。集落と周溝状遺構が共存する遺跡は多くなく、10ヶ所しかなかった。周溝状遺構には円形周溝状遺構と方形周溝状遺構の2種類があり、圧倒的に方形周溝状遺構の方が多かった。



中近世遺跡

 中世遺跡としては、有吉城跡から土坑や墓坑、有吉北貝塚から土坑墓、火葬墓等、さらにムコアラク遺跡から城郭跡が確認された。その他に溝、道路状遺構等が見つかった。中世の住居跡は見つかっていない。平安時代後半からは、台地上の竪穴住居跡が姿を消し、集落遺跡が見られない。竪穴住居跡が消滅した原因として居住形態が急変したのか、人々の居住空間が台地上から他の場所へ移ったのか、定かではない。いずれにせよ、古墳時代後半から平安時代にかけて、数百年以上にわたって展開してきた台地上の集落は途絶えてしまった。人々の生活に大きな変化があったと考えられる。

 

 近世の遺構としては、塚や溝が遺跡から検出された。古墳を利用して塚に修築された例も報告されている。



おわりに

 宅地造成前のおゆみ野には、畑や山林が広がり、とてもかって多くの人間が集落を形成し住んでいたとは想像もできないところだったようである。そこに再び、このような大集落が形成されることになったのであるが、殆どの住民にとって、この歴史上の事実を認識することは、到底無理と思われる。おゆみ野の住民たちの大多数は、遺跡の存在すら知らない、移り住んできた人々だし、地元の人々も、詳しい方々は限られている。

 

 このホームページが、おゆみ野の遺跡を知る機会となり、生活している環境に思いをはせることができたなら幸甚である。

 

 最後に、このページ作成にご協力していただいた、(財)千葉県文化財センターの森本和男氏に感謝いたします。

 


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